Work

友

ここにある世界


              
犬は、呼びかけると驚くほど俊敏に反応してくれる。笑うように大きく口を広げ、こちらに走ってくる。その姿を見ていると、何とも言えぬ温かい気持ちになる。 
 しかし、狼とそのような関係を築くのは容易ではない。彼らは根っからの野生だ。ただ、仔のときからずっと一緒にいれば、その絆は一生終わることはない。
 アサは、そんな犬と狼との間に生まれた狼犬だ。この辺りでは珍しいことではない。猟の獲物が大きく気性も激しいため、村でも体格の良い犬と野生の狼をつがわせ、更に頑健で賢い猟犬を作り出したのだ。昔からの習わしで、村人にはそれがいつ始まったのかは伝わっていない。
「この山には精気が満ちとる。わしらのご先祖らぁが、わしらのために流してくれとる。だから、ここいらの獲物は皆大きく、脂ののった肉と質の良い毛皮を恵んでくれるんだ」
 いつだったか、父がそんなことを言っていた。


 たった今釣り針にかかった魚の口に親指をひっかけると、タカは振り返り様に思いっきり投げた。
「アサ、大物だ!」
 大人しく座っていたアサは、待っていたかのように跳び出してきて、草原の上を遠く飛んでいく魚を追いかけた。狼である母親譲りの白銀の毛を美しくなびかせ、父親譲りの大きくしなやかな体を躍動させて、アサは魚の軌道を読んで駆けていく。やがて、アサは高く跳び上がり、上手く魚をくわえて地面に降り立った。しかし、アサはその場で食べようとせず、律儀にもタカのそばまで戻ってきてから食らいついた。
 タカの肘から指先まである大きな魚も、アサには小腹を満たす程度の小さな魚だ。あっという間に平らげてしまった。
 木の枝と蔓で作ったお手製の釣竿を放り投げると、じっとこちらを見上げて待っているアサを見下ろし、タカは走り出した。
「行こう!」
 興奮してうるさく吠えながら、アサも歩調を合わせて駆け出した。  
あの頃は、幸せだった。それはアサも同じだろう。たぶんあの頃が、二人の絆が一番深い時期だったのだ。


 アサが生まれて二年目の夏だから、自分は確か十七だったか。村の猟犬が、猟の間に命を落としたのだ。タカの父が、間違った命令を下したのが原因だった。興奮している大鹿を前に普通なら待機を命じるところを、追い詰めて誘導しろと合図してしまったのだ。猟に出ていた男たちは、射程ぎりぎりの所で弓を構えて機会を窺っていたから、全員助かった。鹿の一番近くで真っ先に命令に従った父の猟犬が、犠牲となったのだ。
 失ったのが自分の猟犬だったから、村人は父を敵対視することはなかったが、一家は肩身の狭い思いをせざるを得なかった。猟は、三頭から五頭で行われる。大きな鹿は気が強いことが多いので、一頭狩るにはそれだけの猟犬で圧倒する必要があるのだ。それほど大きくないこの村には、猟犬をたった一頭失うだけでも相当な痛手となった。
 幸い狩りの腕は一流のアサが頑張ってくれたおかげで、村から餓死者が出ることもなく、さして生活に不自由を感じることはなかった。しかし、父はこの事件の責任を取って、猟師を辞めた。慣れとは恐ろしいものなのだと、そのとき誰もが思い知った。


 その年の秋のことだ。
「おい、アサはどうなんだ」
 居間に上がると、父が待ちかねたように囲炉裏の向こうで身を乗り出した。
「かすり傷だよ。鼻のあたりをちょっと引掻かれただけ」
 父は愁眉を開いてため息をついた。
 母が鍋の鹿肉をお椀によそって渡してくれながら、父に声をかけた。
「まあ、あのアサのことだから、大丈夫でしょう」
 今日の昼下がり、猟犬たちの間で大乱闘が起こったのだ。さっき男たちが調べて、その原因がわかった。アサと数頭の猟犬たちが、山で狼の亡骸を見つけたのが始まりだ。全身白髪になるほど年寄りの狼で、群れの足を引っ張らないよう序列から外れて、ここまで流れてきたらしい。とはいえ、仲間に追い出されたのが実際のところだろう。好奇心旺盛な彼らがそこで何をしたのかは、容易に想像がつく。その狼の匂いを全身にくっつけて帰ってきたアサたちと、村に残っていた猟犬たちが衝突したのだ。知らない匂いのするものを猟犬たちが警戒するのは当然で、アサたちが彼らの警戒の意味を理解せずに、遊びの誘いのつもりでちょっかいでも出したのだろう。
 犬は、目は良くないが鼻はとんでもなく良い。知らない狼の匂いの中に、本人たちの匂いも嗅ぎつけたのか、命に関わるほどの傷を負ったものはいなかったが、それでも凄まじい喧嘩だった。結局、村人が総出で自分の猟犬に合図や命令を飛ばし、水を桶でぶっかけるまで彼らは止まらなかった。
「お前のアサが頼みの綱だからな。怪我で猟ができんようになったら大事だ。アサが役に立つ間は、大事にしてやれよ」
 アサに対する思いやりがひとかけらも感じられない言葉に、タカは顔を上げた。
「親父は、アサが心配なんじゃなくて、自分のことが心配なんだろ」
 父は箸を止めて、唖然とした顔でこちらを見つめていた。いつもなら唾を飛ばして怒るだろうに、その日は何も言わず、ただ再び白飯を口に運び、黙って食べ続けるだけだった。
 父は、アサがいなくなれば、村から追い出されると思っていたのだろう。兄弟のように慕っていた猟犬を自分のせいで失ったことに、相当参っていたのかもしれない。あの言葉は、父らしくなかった。
 父はもう、アサのことを友とは思っていない。父にとってアサは、自分の立場を守るための道具でしかない。そう思い始めてからか、タカの言葉へのアサの反応が、鈍くなっていった。


 これまでアサは、タカの命令に反抗することはなかった。いつも何ということもなく、幼い頃に叩き込まれた命令や合図を、ただこなすだけだった。こちらが褒めてやると喜ぶから、タカは、アサの気持ちを考えることをいつしか忘れていた。 
 アサは、自ら望んでここにいるわけではない。それは、人であれ獣であれごく当たり前のことだが、自分たちとは違う。彼らは、この世に生まれ落ちた瞬間から猟犬として躾けられてきた。本来腹を空かせたときにするはずの狩りも、彼らの意思ではなくタカたちの命令に従ってやってきた。
 彼らは、自らの意思では生きていない。
 昔から、村の生活が苦しいとき、猟に出られなくなった猟犬やあまり猟で功績を上げてこなかった猟犬を、ご先祖の下に贈る儀式が行われていた。本来は最期の最期まで面倒を見るものだが、不作や猟の失敗など災いが続くと、ご先祖の怒りを鎮めるために役目を終えた友を捧げるのだった。自分たちがご先祖の精気で生きているというだけあって、それらの災いは、村の誰かがご先祖の逆鱗に触れたためとされていたからだ。
 猟犬たちにとっては、何もかもが理不尽でしかない。たとえ、言い伝えられてきたことが本当に正しいとしても、彼らに責任はない。自らの生活を支える猟犬を捧げることで反省の気持ちを示し、猟犬にご先祖の機嫌を取って許してくれるよう説得してもらう、という馬鹿げた理屈をつけて、村人たちは責任逃れをしてきただけだ。
 そう考えるようになってから、アサと接するとき、心に迷いが生じるようになった。アサが命令を聞かなくなったのは、その頃からだろう。


「おい、タカ」
 運良く快晴となったある朝、外に出ると村の男が声をかけてきた。
「アサはどうした。最近一緒にいるところを見かけんのんだが」
 タカは軽く会釈して答えた。
「他の猟犬たちと一緒にいるんじゃないですか。最近は俺のとこには来ませんよ」
 男は無精髭の生えた顎を撫で、こちらを見下ろした。
「……そうか。まあ、怪我とか病気ってわけじゃあないんだな。ならいいんだ」
 タカは大柄な男を見上げてうなずいた。
「今日の猟の話は聞いとるんだろ。今回のは結構でかいようだから、アサがおらんかったらどうもならん」
「……はい」
「猟一回の失敗で結構な痛手だ。特にここんとこは……な」
 父のことを言っているのだろう。タカはうつむいてもう一度返事をした。
 男は何を考えていたのか、しばらく黙っていたが、やがて深いため息をついた。
「もうすぐ集合だ。アサを連れていつものとこに来い」
 言うや、踵を返してさっさと歩いていった。
 タカは何も言わずにその後ろ姿を見送り、男が去っていったのとは反対の方向に足早に歩き始めた。
 いつもの樹のそばに、アサはいた。ほかの猟犬はもう集合に行ってしまった後のようで、辺り一帯はしん、と静まり返っていた。
「アサ、狩りに行くぞ」
 アサは伏せの姿勢のままで、顔だけをもたげた。しかし、いつものようにすぐに立ち上がろうとしない。
「アサ」
 傍らにしゃがみ込んでその背を撫でても、アサはこちらに目を合わせようとしない。タカはアサの耳に指を触れて、熱がないか確かめた。鼻も乾いていないし、怠そうな素振りもないから、特に体調が悪いわけではなさそうだ。
 最近、こんな調子が続いている。アサは、タカの言うことを聞かなくなった。
 タカはアサを見つめた。明らかに気の乗らないという目をしている。 いつもなら、タカの匂いを嗅ぎつけるや全速力で駆けてくるのに、近頃はそれもない。……前のように、タカの顔を見ても嬉しそうに尻尾を振ることもない。目すら合わせようとしない。
「……アサ、この狩りが終わったらしばらくは暇だから、今日は頑張ってくれよ」
 もう何度も言った言葉だ。アサは、意味を理解しているわけでもないだろうに、これを聞くとのっそりと立ち上がる。
「よし」
 額を撫でてやると、アサはタカから小走りで距離を置き、水を振り払うときのように身を震わせた。
 とっくに場所は覚えたのだろう。こちらが誘導してやらなくても、いつもの集合場所に向かって一人ですたすたと歩いていく。
 自分を振り払われたような気がして、顔を曇らせながら、タカはアサの後ろについて行った。


 ある日、猟から帰ってきて土間で足を洗っていると、父が出迎えて背後に立った。
「今日も一緒じゃないんか」
 渡された手拭いを受け取って、タカは父にうなずいた。
雪がちらつくようになると、アサは居間で夜を過ごす。普段は囲炉裏の煙を嫌って、仲間たちと軒下や近くの樹の洞で寝るのだが、この時期は寒さをしのぐために煙を我慢するのだろう。
 しかし最近は、居間までついてこなくなった。それどころか、猟が終わってもタカにくっついてこず、村にも戻らなかった。日が暮れると帰ってくるのだが、どうやら樹の洞で寝ているらしい。
「お前、何を考えとる」
 父は顎に手をやった。
「お前の力が、アサの中で弱まっとるんじゃないか。こういうときにちゃんと向き合わんと、アサはお前を主人と思わんくなるぞ」
 手拭いを置いて、タカはうなずいた。
 そうかもしれない。この頃のアサは、タカの命令が聞こえないふりをしたり、タカとなるべく出会わないように行動を変えたりと、どこかおかしい。このまま放っておけば、猟にも影響が出かねない。きちんと向き合って、友情を深め直すべきかもしれない。


 翌朝、アサを探して村に出た。まだ夜が明けてからさほど経っていないのに、もう朝餉の片づけを終えた女たちが、衣を洗って干し始めている。男たちは、昨日獲った鹿を街で売るために加工している。父はその仲間には入らず、野うさぎ用に仕掛けた罠の様子を見に、ついさっき山に入っていった。猟犬の空きで減った分の獲物を、自分の力で取り返そうとしているのだろう。
 寒い日だった。毛皮の羽織を着ていても、寒さが身に染みるようだった。
 手に息を吹きながら歩いていると、洞のある樹の裏側から、白い大きな狼が出てきた。アサだ。
「アサ」
 足を止めて呼ぶと、アサも立ち止まって、こちらをぼんやりと見た。
「来い」
 アサは動かなかった。
「アサ」
 少し強い口調で呼ぶと、アサはふっと目を逸らし、尾を垂らして歩み寄ってきた。
 タカはその頭を撫で、アサがついてくるのを背で感じながら、何も言わずに歩き始めた。
 向かったのは、昔アサとよく遊んだ湖だった。今は厚く氷が張って、何とも寒々しい風景だが、春には対岸で多くの桜が咲き、広い草原には白や黄色の小さな花が咲き乱れ、とても美しい眺めとなる。
「アサ」
 釣りをするときによく陣取った平らな大岩の上に腰を下ろし、タカは地面に座っているアサを見下ろした。
「お前も変わったよな」
 アサの目には、何の表情も動かなかった。それを見て、タカは苦笑した。
「そうか。……変わったのは、俺の方か」
 アサはぴくりともせずに、こちらを見上げている。
「アサ、ここを覚えてるか」
 タカは湖を振り返った。
「俺たち、ここでよく遊んだよな」
 懐かしいあの日々。しかし、なぜかそれらはもう、二度と戻らない気がしていた。
 こんなことを話しても、アサに伝わるはずがない。それでも、自分の心の迷いに感づいたアサなら、心のどこかでわかってくれる気がした。
「お前さ、俺の何が気に入らないのさ」
 そう言って振り返り、アサと目が合った瞬間、タカは初めて気がついた。背筋を伸ばして座り、耳をぴんと立てた無表情のアサ。アサは、生まれたときから一緒にいる友の話に耳を傾けてくれていたのではない。主人の命令を待っていたのだ。
 

 彼にとって、自分は友ではなく、従わねばならぬ主人だった……。


 その言葉がぽっと胸に浮かび、底に沈んでいった瞬間、喉のあたりがぶわっと熱くなり、タカはいきなり立ち上がって怒鳴った。
「アサ!」
 今までこんなふうに怒ったことがないからだろう。アサはぎょっとしたように、わずかに顎をひいた。
「……俺は今まで、お前のことを友達だと思ってた。お前も、きっと俺と同じ気持ちだと思ってた。それなのに……」
 タカは、湖を指して言った。
「俺たちここで遊んだよな。それも、俺に従っていただけなのか」
 言い放って振り返ると、久しぶりにアサと目が合った。その目に初めて、表情が動くのが見えた。何か、問いかけるような色を浮かべて、こちらを窺っている。
 束の間、二人の間に沈黙が降りた。風が、乾いた音をたてて流れているだけだ。アサの気持ちを掴みかねて黙って見つめ返していると、やがてその目に、燃えるように激しい色がひらめいた。
 アサが、太い声で唸り始めた。腹の底に響くような、ぞっとする音だった。機嫌の悪いときに唸ることは今までもあったが、これほどのものは聞いたことがなかった。
「アサ……」
 咄嗟に、指を大きく広げた右手を前に突き出した。猟のときによく使う、〈待機〉の合図だった。
 しかし、アサは命令に従うどころか、その手を目がけて跳び出してきた。まるで長年の宿敵に止めを刺すような目つきで、アサはこちらが防ぐ間もなくタカの手を咬んだ。
 勢いに押されて、タカは尻餅をついた。アサの顔が目の前にあった。白く光る牙をむき出しにして、鼻面に深いしわを寄せ、ものすごい形相でこちらを睨んでいる。馬乗りになるような形で、大きな右前脚を、獲物を抑えるときのようにタカの胸に置いている。
 アサの重みを感じ、そのよく光る黄金の瞳を見て、タカは冷や汗をかき始めた。
 アサを、生まれて初めて怖いと思った。
 その思いを感じ取ったのかそうではないのか、アサはふと唸るのをやめ、口を閉じた。その目には、奇妙な光が浮かんでいた。
 アサはタカから下りると、少し距離を置いてこちらを振り返った。タカが身を起こしてアサを見つめても、もうアサは何の反応も見せなかった。
 二人の間に、強い風が吹いていた。頭上を雲が流れていく。さっきまでの晴れ空が嘘のように、辺りは暗くなっていた。
 気が遠くなるほど互いに見つめ合うと、やがてアサはふっと荒く息を吐き、ぱっと駆け出した。
 また襲われる、と思って身構えたが、アサは身をすくませたタカの上を軽々と跳び越えて湖の氷の上に降り立ち、そのまま一直線に駆け出した。
「アサ!」
 呼んでも振り返らず、アサは硬い音をたてながら氷を蹴って湖を渡りきると、あっという間に草原を抜けて、裸の桜の森へ消えてしまった。
 しばらく、唖然として動けなかった。
 そのとき、白い綿のようなものが頬に触れ、タカは空を見上げた。空から、無数の白いものが舞い降りてくる。
 この冬初めての大雪となった。


 アサは、それから二度と戻ってくることはなかった。
 父はひどく失望し、烈火のごとく怒った。アサを失って落ち込んでいるタカを気遣って母がなだめるまで、父は罵声を浴びせ続けた。村人たちは、アサがいなくなっても、度々迷惑をかける一家を追い出すことはさすがにしなかった。しかし、タカたちは以前よりもいっそう、肩身の狭い思いをして暮らすことになった。アサがいた頃の貯えがあって、その冬は何とか越すことができたが、次の冬からどうするのか、村のあちこちから不安の声が上がっていた。
アサが、あんなふうに唸って命令に反抗し、タカを咬んだのは初めてだった。たぶん、アサの方にも、何か思うところがあったのだろう。だが、結局それについて知ることはできなかった。
 アサに咬まれた傷は、それこそ縫わないわけにはいかないものだったが、それほど深い傷ではなかった。大柄なあのアサに咬まれたというのに、不思議なほどの軽傷だった。友達は、興奮状態の猟犬にそんな理性などないと言っていたが、タカは今でも、アサは加減していたのだと信じている。
 その冬はこれまでにないほど寒く、過酷な冬となった。寒さのわりにあまり雪の降らないこの山にも、膝のあたりまで雪が積もった。
 村人たちは、あのアサでもこの冬は無事に越せんだろうと、しきりに噂していた。確かに、これまで人の下である程度世話を受けていたアサには、野生での狩りのやり方も寒さのしのぎ方も、わかるわけがない。彼にあの厳しい冬を越すのは、難しいことのように思えた。
 苦しくなった生活を建て直し、村人の信頼を取り戻すことに奮闘するうち、気づけば四年の月日が流れていた。
 

 二歳になる息子を抱えて、タカはあの湖に向かって歩いていた。そろそろ、年が明けてから五月経つ。あの湖の向こう側の桜も、満開を迎えていることだろう。それを、息子に見せてやろうと思ったのだ。遠くからだが、初めての美しい樹を見て、この子はどのような反応をするだろう。
 村の家と畑を獣から守るための柵を南に抜けると、広い草原へ出る。ここをずっと歩いていけば、波のない穏やかな水面が見え始める。その岸辺に座り込んで、向こう側の森と、天にそびえる山々を、一人でよく眺めた。アサがいなくなってからは、仕事の合間を見つけては、よくそうしてぼんやりしていた。
 この四年は、本当に大変だった。あの後、タカは街に出稼ぎに出て、一年村に戻らなかった。最終的には自ら志願したので、追い出されたわけではないのだが、村人たちの圧力があったのは言うまでもない。あの冬の厳しさで村の倉は底を尽き、誰かが村を出ざるを得なかったのだ。タカはそこで、同じように半ば村を追い出された自分たちより裕福な一家に出会い、そこの娘をめとった。始めのうちは、彼女を連れたら村に戻れるかもしれぬ、という下心があったが、そのうち、互いに心惹かれ合ったのも事実だ。
 一家は財産として猟犬と馬を連れており、そのおかげで、村は生活を少しずつ建て直すことができた。さすがにその一家の分の家を建てるほど経済力は回復しておらず、未だにタカの家に両親が居候しているが、妻はよく働いてくれた。
 昔よく座った岩板の上に腰を下ろすと、息子がタカの古傷を撫で始めた。こうして抱かれているとき、息子は人差し指でアサに咬まれた傷をなぞるのが癖になっていた。
「やめろよ、くすぐったいから」
 指を引き離しても、何度もしつこくなぞってくる。人の肌に白い線が入っているのが、面白いのだろう。
「くぅしゅぐったぁい」
 響きが面白かったのか、きゃっきゃっと笑って繰り返している。
 その顔が可愛いくて、タカも思わず頬をほころばせた。
「ほら」
 ここに来た目的を思い出して、タカは体の向きを変えた。
「見てごらん。きれいだろう」
「うわぁ。きぃれぇい」
 晴れ渡る空を映して、湖の水面が輝いている。その向こうに草原を挟んで、一面に桜が咲いていた。
 壮大なその風景に見入っていると、息子が何かに気づいて指さした。
「とぉとぉ、あそこぉ! なんかおるよぉ」
 目を細めて首を伸ばしたが、何も見えなかった。よっこらしょと立ち上がると、息子の言わんとしているものが目に入って、タカははっと息を呑んだ。
 狼がいる。しかも仔連れだ。仔は五頭いて、皆灰色の毛をしている。
「とぉとぉ! おいぬさんがいるぅ」
 口をふさぐ間もなく息子が大きな声を出したので、タカは首をすくめて動きを止めた。
 狼の方も、ぴたっと動きを止めてこちらを観察している。大きな湖が間にあるせいか、互いの緊張はそれほど高くはなかった。ただ動きを止めて、互いを見つめ合っている。
 仔狼の方はすぐに警戒を解いて、それまでと同じようにじゃれ合い始めた。去年生まれたのだろう。交尾期の始まる四月頃に母親が身籠り、二月の妊娠期間の後、夏に生まれたとすれば、あれくらいの大きさには成長する。
 それにしても不思議だ。この辺りは猟のために村人や狼犬たちがうろつくから、狼は縄張りを作らない。野生の狼は、タカでもアサの母親しか見たことがなかった。
 母親だろうか。小柄な方の灰色の親が、こちらが動かないと見て取ると、目を逸らして花の匂いを嗅ぎ始めた。小柄といっても、狼にしては大きい方だ。隣でまだこちらを観察している白い狼が大きすぎて、小さく見えてしまうのだ。
 大きい。子供なら、背に乗せてもびくともしないだろう。白銀の毛がそよ風になびいて、美しかった。
 耳を立てて、首を伸ばすようにしてこちらを観察している。その目に妙な親近感を覚え、タカはつぶやいた。
「アサ……?」
 白い狼が母親に合図をすると、母親は軽く吠えて子供たちを集め、桜の森へ去っていった。
 古傷をなぞることに夢中になって、大人しくしている息子を揺すり上げ、タカは狼を見つめた。
 狼も、こちらを見つめている。
 狼は鼻先を天に伸ばすと、唐突に遠吠えを始めた。
 美しい声だ。太く高く、それでいてどこか繊細なところがある。触れたら切れてしまいそうな気がする。聴いていると、胸のあたりが苦しくなる。しかし、耳を傾けずにはいられないあの声。
 アサだ。
 アサが余韻を残して吠えるのをやめると、山に反響して声が返ってきた。アサは再びこちらを見つめた。
「アサ」
 口の中でつぶやくと、それが聞こえたわけではないだろうが、アサは踵を返して桜の樹々に姿を消した。
 あのときと同じくらい、アサはきっぱりとタカに背を向けた。
 しかし、あのときとは何かが違う気がした。


 村に戻ると、かなり近い所から狼の遠吠えが聞こえたことで騒ぎになっていたが、それもやがて村人からは忘れられていった。
 アサが生き延びていたことが、ただ純粋に嬉しかった。あの可愛かったアサが自らの縄張りを持ち、子を生して野生のままに立派に生きていることが、誇らしかった。
 あの日、自分たちは偶然にも、子供の顔を互いに見せに来たわけだ。 それを考えると、今も自分たちの間には、何かのつながりがあるような気がしてしまう。
 アサも同じ気持ちだったのだろうか。昔自分と遊んだことを、覚えていたのだろうか。思い出の詰まったあの場所を、子供に見せてやりたいと思ったのだろうか。
 しかしいずれにせよ、もう自分たちは、以前のように野で遊ぶことはないだろう。あの頃のように、友や兄弟のように接することもないだろう。アサはもう、あの湖のこちら側には、決して来ない気がした。
 つながりがあるとすれば、その程度だろう。もう、過去の出来事でしかない。……アサの中で、自分は思い出の中の人だ。
 考えてみれば、当たり前だった。自分は最後まで、アサに命令してばかりだった。そんな自分を、アサが友と認めるわけがなかったのだ。 
 あれから毎年、妻と息子を連れて春の湖を訪れたが、アサと会うことは二度となかった。 
 結局、何を想ってタカを咬んだのか、遠吠えで何を詠っていたのか、知ることはできなかった。これからも、知ることはないだろう。 
 しかし、今でも時折聞こえてくる。あの美しい遠吠えが。遠吠えにはきちんとした意味があるから当然だが、アサの歌には、もっと切実な想いがある。しかし、自分にはそれを理解することができないのだ。
 きっと獣と人は、ある程度の距離を保っていなければならないのだ。相手のことを友や家族だと思っていても、実際にそうなることは、永遠にない。近づきすぎれば、互いを傷つけてしまうだけなのだ。


 犬は、呼びかけると驚くほど俊敏に反応してくれる。白銀の毛を反射させ、魚を追いかけて全力で走っていく。その姿を思い出すと、懐かしい気持ちと、胸にぽっかりと穴が開いたような、切ない気持ちになる。 しかし、狼は根っからの野生だ。天敵同士の人間に、懐かしさを覚えることはないだろう。
 アサは、そんな犬と狼との間に生まれた狼犬だ。この辺りでは珍しいことではない。それでも、猟犬とあれほど深い絆を築いた猟師は、これまでに存在しないだろう。


 アサは、今でもタカの友で、タカは、今でもアサの友だ。
ここにある世界                                               
 
 急いで階段を駆け上がる。重い鞄を肩にかけて。普段ならエレベータを使うところだが、今日はそんな時間などない。五階の部屋を目指す、久しぶりの二段飛ばし。

 ドアを開けると、いつも通りの蒸し暑い静かな部屋。入って、明かりより先にテレビをつける。ソファに腰かけ部屋の右上に目をやると、アナログ時計は十九時五分前を指していた。録画ができる機械など、この部屋にはない。だから見たい番組があれば、急いで帰ってくるほかないのだ。帰りに電車に遅れたときはどうなることかと思ったが、何とか間に合った。安心した途端に、走っていた疲れが体に。そのまま倒れるようにソファにもたれかかった。

 ……耳に入ってくるテレビの音が、徐々に鮮明になっていく。部屋の左上、時計を見ると針が指すのは一時。首と背中に痛みを覚え、伸びをしながらのっそりと起き上がる。テレビを見ながら寝ていたらしいな。今日は仕事も忙しかったし、帰りも大変だった。だんだん思考がはっきりしてきて、喉の渇きに気がつく。水を求め、吸い寄せられるように冷蔵庫に向かおうとして、錆びた匂いのする部屋をゆっくりと出ながらふと思い出した。
 ……急いで帰ってきたのに、見れてないし。

 沈んだ気持ちで冷蔵庫に向かう。まったく、何のために今日一日頑張ったのやら。最近、やや運が悪い。今日のテレビだって見逃したし、イヤホンが片耳壊れたり、158円のレタスを不注意で1588円で買ったり、なんだか左膝が痛かったり。そんなことを考えてるとだんだんイライラしてきた。ペットボトル入りの麦茶を直接飲む。麦茶がまずい。こんな気分で飲んでも、うまいはずがないんだが。

 ふてくされて布団をかぶっても、眠れない。明日は土曜日。どうせ暇だ。


 今日は外が騒がしい。普段誰も使わない階段を駆け上がってるような音。だんだんと音が近づいて、ドア越しに足音が止まった。なんだ、自分の飼い主だ。ちなみに自分はカメで、名は俊。でもこの名前はこの飼い主が勝手に決めたもの。他の仲間の前では、違う名で呼ばれている。自分としては、別にどんな名で呼ばれようと構わないんだが。ある程度綺麗な場所と、生きていけるだけの食糧。それさえあればいい。ちなみに今日は朝からエサをもらっていない。
 時刻は十九時十分。あいつは鍵を開けて入ってきた。なぜか急いでいるようだ。テレビの方へ駆けていく。しかしテレビをつけた途端、寝てしまった。何がしたかったんだろう。うるさいからテレビ消してくれないかな……。

 テレビの音に耐えることおよそ六時間。ようやく起きてきた。伸びをして、ゆっくりと起き上がる。勿体ぶってないで早く消せよ。と思っていると、フラフラとテレビに向かって歩きだした。しかしそのまま素通り。冷蔵庫へと向かっていった。安眠は、まだ来ない。
 その後まもなくして、あいつは不機嫌そうに帰ってきた。よくわけの分からないことを口走りながら、テレビを消し冷房をつけて、布団へ。目覚ましをかけてないけど、大丈夫だろうか。そう思いカレンダーを見ると明日は土曜日だった。おやすみなさい。明日はエサをくださいな。


 突然耳に入ったやかましい足音で、目が覚めた。うるさい奴が帰ってきたようだ。と思いきや、テレビだけつけて、つけた本人は静かになってしまった。まあ私には関係のない話。冷蔵庫の私には寝る必要がないので、あそこのカメのように騒音に悩まされる心配はない。ただ、やはりうるさいのは不快だ。あと、帰ってきたんなら冷房をつければよかったのに。部屋の右上にある温湿度計。湿度の針が振り切れそうだ。とても蒸し暑い。ここで平気で寝ていられる人間は、凄いと思う。
 
 日が沈んでからどのくらい経ったのだろう。あいつが起きてきた。どうやら喉が渇いているようで、奥の方にあるジュースを取ろうとしている。が、寝ぼけていて見当たらなかったのだろう。手前にあったペットボトルを取り出した。よほど喉が渇いていたらしく、普段はコップに注ぐのに、直に飲んでいる。と思いきや突然顔をしかめて、飲んでいたものを吐き出した。変な奴だ。あいつはそのままペットボトルの蓋もろくに閉めずに、布団の方に戻っていく。そこで私は目を自分の体の内側へと向け、中身を見てみた。すると一番手前にあったのは、蓋が半開きの醤油。まあ、そんな気はしていた。

……外が暑かろうと煩かろうと、私の仕事には関係ない。他の皆が寝ていても、私の仕事に休みなどない。今日もまた一日が終わる。単調な日々が過ぎていく。そんな中で、時々不安になることがある。こんな生活を送っていたら、私の心は冷えきってしまうのではないか。     ――こんなことをただの冷蔵庫が問うても、いいのでしょうか。

 眠れない。布団に入ってから、既に一時間は経っただろうか。何かが心に引っかかっている。起きていたって仕方ないのだが、眠れないのなら他にできることもない。ぼんやりと、自分を見つめなおす。

 この部屋は、俺の人生と似ている気がする。このぬるい冷房のかかった部屋は。暑くも寒くもない部屋、良くも悪くもない毎日。日々刻むこの単調なリズムは、何の特徴もないが、嫌いじゃない。この平凡で微妙な暮らしがずっと続けば、なんて思い願って、一人。暗い天井を眺める寂しい夜。確かにここに。


 今日もカーテンの隙間から、まぶしい日差しがのぞく。僕は壁にいる日めくりカレンダーだ。でも実は、最近めくり忘れられることが多い。あいつはのんきに寝ているが、今日はまだ水曜日だ。ほら、電話がかかってきた。きっと会社からだな。