ここでは文芸部員によって書かれた作品を一部紹介します。
 この作品は2015年の部誌「激団誌記 峰雲号」に掲載された作品です。

「球体」

                              
作・白兎黒犬


 それの出現は突然だった。某年七月七日、午前十二時三十四分。東京スカイツリーの上方すれすれの所に、それは音すら立てずに現れた。直径五百mの真っ黒な球体。確かに存在しているそれに、何故だか影は存在しなかった。
 ある者は、社員食堂での食事中に。ある者は、外回りから戻る途中に。ある者は、家事の小休憩の合間に。近隣に住む各々が、突如日常に出現した異物に驚き、混乱の渦に叩き込まれた。
 初めに警察のヘリが動員された。拡声器を使った呼びかけに、球体からの反応は一切なかった。マスメディアは東京スカイツリー周辺に集い、全てのチャンネルがこの緊急事態を報道した。警察の静止を振り切ったある局が報道用ヘリコプターを飛ばしたことを切っ掛けに、各局の映像は空中からのものに切り替わり、黒い球体の様子が克明に放送されることになった。表面は研磨されたかの様に傷一つなく、完全に黒一色。材質は一切不明だった。なんともテレビ映えのしない画を、プロは様々な演出でもって画面に映しだした。
 出勤していたサラリーマンが帰宅する頃には、臨時閣議が開かれていた。各局はUFO専門家、航空防衛評論家、超常現象研究家などを集め、黒い球体について自由に討論させた。白熱し飛躍していく議論は、夕食時の家庭を大いに楽しませ、人々の混乱はいつしか怖いもの見たさともいえる感情に替わっていった。中継画面は相変わらず地味だったが、討論と事態の非日常感だけで、派手さと視聴率は十分稼げていた。
 球体に積極的な敵対姿勢が見られないことから、内閣の意見は真っ二つに分かれた。すなわち、攻撃か傍観。国内情勢を反映した結果後者が選ばれ、政府はひとまず球体に攻撃を加えないことを決めた。野党は弱腰だと非難したが、だからと言って特に代案も持ち合わせていないので、それ以上は何も言わなかった。公共放送が最も早く閣議決定を伝え、続いて民法の生放送のアナウンサーたちが、慌ただしく報道していった。
 全局の現場生中継は三時間程度で終わり、その後一週間は球体に関する特集が散見された。球体ついでに東京観光をしよう、という者の流入により、東京都全体の収入が若干増加した。
 海外もこの緊急事態に大きく動いた。調査団の派遣を申し出た国、東京都への旅行を制限した国。対応は様々だったが、いずれの国もこの不可解な現象に大きな興味を示している点では一致していた。
 インターネットは当然この話題で持ちきりとなった。陰謀説、超常現象説、集団催眠説、真実とも虚偽ともつかない様々な説が飛び交った。某国による攻撃だという説を掲げ、ネットの匿名性をいいことに、証拠の一つも見つかっていないにもかかわらず、武力での反撃を唱える過激な者もいた。それに過敏に反応して、過激思想の弾圧を唱え始める者まであった。
 どこもかしこも球体についての話題で持ちきりだった。直接見た者の方が少ないというのに、地方ですらこの話題を知らない者は馬鹿にされた。教師はありきたりな授業のスパイスとして、主婦は井戸端会議のネタとして、社会人たちは仕事終わりの晩酌の肴として。どこもかしこも、球体の話題で持ちきりだった。

 しかし、それも長くは続かない。
 球体になんの変化も見られないのだ。いかなる呼びかけにも返答を返すことがない。日本語のみならず、英語、フランス語、イタリア語など、多種多様な言語での呼びかけが行われたが、一切の返答はなかった。念には念を入れてということで、民族間のみで使われる特有の言語なども用いられたが、やはり反応はなかった。
 次第に特番の回数が減っていった。ニュース番組で取り上げられることも少なくなっていった。週刊誌や新聞紙からも消えていった。そして、いつしか人々の間からも消えていった。知らないと馬鹿にされていたはずの球体の話は、持ち出すと時代遅れだといわれるようになった。
 そして、僕の中からもその話題は消えていきつつあった。

 十二時過ぎ。東京スカイツリーが見える、我が大学の食堂の一角。僕と明は、それぞれ苦学生向けの安い定食を注文して、二人で窓際を陣取っていた。食堂を賑わすのは、音楽、スポーツ、芸能……どこにでも転がっていそうな話題。
 僕と明は、あまり流行りに敏感な方ではない。好きなアーティストはいるけれども古く、スポーツは暇つぶしに見る程度で、知っている芸能人は有名どころの名前と顔だけ。人と関わることが嫌いなわけではないが、あまり話が合わないということで、学友たちからはやや敬遠されている。
 傍から見ると傷の舐め合いに映るのかもしれないが、僕と明は……少なくとも僕は、この関係を悪くないと思っていた。会話がなくても不快に感じない相手は、僕にとって非常に貴重なのだ。
 トンカツ定食とアジフライ定食を無言で食べている時間がしばらく過ぎた後、明が僕に話しかけてきた。
「最近誰も話さないね、あの黒いののこと」
 箸をおいて指差す先は、ガラス張りの向こうにある東京スカイツリーのその頂点、直径五百kmの真っ黒な球体。
「意外だな、お前が流行りものに興味を示すなんて」
 返答に困った僕の曖昧な答えに、明は少し不機嫌そうになった。
「もうとっくに流行りじゃなくなってる……皆まるで、あんなものないみたいに過ごしてる」
 食堂で話を始めるとき、明は必ず食事の手を止めて、僕の方を向く。だが、今日の明は僕の方を向かず、球体の方をジッと見つめていた。
「おかしいと思わない? 誰もかれも、理由も原理も実態も不明、しかもなぜだか影がない物体を受け入れて、日常生活を送ってる。一種の現実逃避だよ」
 釣られて見た先には、球体。雲一つない空の中、昼でも明けない夜のような黒い球体。
「手に余るような大きな問題に直面すると、人間って他人事にしちゃうのかな。たとえば、事件とか事故とか。自分の身に起こったって不思議じゃないのにさ」
 僕は顔を見た。明は球体を見続けていた。
「あの球体が、いつどんな悲劇を生んだって不思議じゃないのに、忘れたふりして傍観するなんて……そんなこと、間違ってるって思わない?」
 ようやくこちらに向き直ったその目は、空に浮かぶ球体のように真っ黒で底知れなく、しかし力強い、いつもの明と同じ目。
「ひゅう……ずいぶん熱いねえ。僕も見習わないといけないな」
 輪に入れもしないくせに、周りに流されて球体のことを忘れてしまっていた自分が恥ずかしくって、つい茶化すような返事をしてしまった。どうやらそれがまずかったらしい。
「真面目な話だよ」
 むすっとした顔でぼそりと呟く声には、明らかに不機嫌さがこもっていた。内心慌てる僕を尻目に、明はさっさと立ち上がる。
「午後からの講義、遅れるよ」
 言うだけ言うと、自分の分の食器を持って、明はそのまま行ってしまった。情けなくも僕は、急いでその後を追う羽目になった。途中、スカイツリー直上の黒い球体が目に入ったが、ひとまず講義と明が優先とした。

 実家が地方の僕は、当然として大学のために一人暮らしをしている。築年数は長く狭いが、小奇麗なアパートの一室で、僕は今日の講義の見直しをしていた。
「……ふう。しかし、球体か」
 一通りの見直しが終わったところで、講義ノートの片隅に書かれた「黒い球体」という文字に目が止まった。
 ベランダは存在しない我が家だが、窓はある。そして、東京スカイツリーこそ見えないものの、その直上にある球体の一部は見える。
「お前は一体何なんだろうな」
 夜が訪れた東京で、これまたどんな理由か不明だが、黒い球体の姿は未だくっきりと空に映っている。
「皆忘れちゃったみたいだけど、明と……僕はお前のこと忘れてないよ。日常に紛れ込めたと思えたら、大間違いだ」
 もう夜遅いからだろうか、アパートに生活音は一切ない。皆寝ているのだと思うと、なんだか空しい気分になってきた。僕ももう寝ることにしよう。
「はぁ」
 一日の疲れが、ため息とともにどっと出た。一度布団に入ると、重たくなった瞼はもう開かない。
「……球体」
 どうしたらいいのか、そもそも何かすることが出来るのか。それは分からないが、見て見ぬふりはやめようと、そう思った。球体の存在と、いつになく真剣な顔をしていた明の顔が頭の中でぐるぐるとまわり、僕はいつしか眠りに落ちていた。

 目覚ましが鳴り響き、目覚めた僕。翌日もいつも通りの朝だった。しかし、それからの一日は全くいつも通りではなかった。
 誰もいない。
 僕の住むアパート、近隣住民。どこを探しても人がおらず、ライフラインが全て切断されており、冷蔵庫の僅かな中身は残念ながら全てダメになっていた。僕が家の中で大慌てしていると、玄関からドアがノックされる音がした。
 ドアを開くと、明がいた。一瞬安堵の表情を浮かべた明は、何も言わずにうちに上がってきた。どんどん突き進んでいく明の後ろを、僕は慌てて追った。
「あれ、見て」
 明は窓際に着くと、それだけ言って窓の向こうを指差した。釣られてそちらを見ると、球体はなかった。
「真正面から戦ったら、案外片付くもんだね、大きな問題って」
 その瞬間、僕はあの球体がなんだったのか、その全てを察した。
「でも、これからどうしよう。電気も水道もガスもダメ。世界中こんな調子だと、私たち生きていけないよ」
 明の長い髪が、軽く横に振った首に合わせてたなびいた。
「大丈夫だよ」
 明の不審そうな顔に、僕は続けて声をかけた。
「大きな問題は、逃げずに立ち向かったら解決できる、ってね」
 明は拍子抜けしたような顔をした後、微笑んだ。

 東京スカイツリーの上に、黒い球体はもうない。
 誰もいない東京では、たった二人の男女だけがともにある。